中町の昔と今①

中町の地勢

 私達が、何気なく日常生活をしているこの中町の街も、毎日季節が移り替わって行くように変化しています。
 「仲町」と書いていた町名も、何時どの様な理由で人偏の無い「中町」になったのか知りません。昔から慣れ親しんだ街を行政が区画を決める時、新しい表示に替えています。しかし、私達は、何の思いもなく自然にその呼称に馴染んでしまいます。そして昔、仲町という街であったことは忘れ去られてしまいます。
 そこで、中町の地質から調べてみました。中町が属している鶴見は、鶴見川の沖積地で江戸時代以降、埋め立て事業によって形成された地域からできています。鶴見川は上流部では1,000メートルにつき4.2メートル低くなり、下流部では0.42メートルと大変ゆるやかな流れで、さらに曲がりくねっている為、洪水に悩まされてきました。
 鶴見川の治水工事は18世紀、1700年代から行われ、幾多の治水を巡る対立を繰り返し、昭和の代までその事業は続けられて現在の景観を呈しています。
 土地は葦原の中に窪地や水たまりが多く、雁や鶴などが多く生息していました。そして、この地に人々が永住するようになった縄文弥生の頃、土器などを使用しながら水田を拓いていきました。それらの人達は大陸との関係が深く、鶴見という地名も朝鮮語の鶴のこと「チュルミー」の発音から由来するものと思われます。江戸の頃、徳川家康が江戸入府の節、川の辺りで鶴が多くいるのを見て「鶴見」と命名したとの俗説もありますが前節をとりたいと思います。
 地球創生の頃、造山活動が盛んに行われました。中町は、その頃より海に面していました。それ故、地盤は大変に強固で関東大震災に際しても東京、横浜は家屋の倒壊など被害甚大でしたが、中町は倒壊家屋が僅少でした。気候は東京湾を隔てて太平洋に接している関係で、幾分温暖変化の激しさは余りなかったようです。

中町の中世及び近世

 建久元年(1190)、源頼朝が初めて後白河上皇の招きに応じて上洛した時、この戦いの先陣を務めた武士の中に鶴見に関係のある武士の名前が出てきます。鴨志田十郎、馬場次郎、石川六郎、筑紫三郎、寺尾太郎、潮田六郎等々です。その他、文治五年(1185)、奥州藤原氏討伐の際、この戦いに従事した武士の中に鶴見の地名にゆかりのある武士の名前も多く見受けられます。
 この時代、鶴見は「鶴見郷」又は「大山郷」と呼ばれ東海道に臨む宿であり鶴ケ岡八幡宮の社領でした。しかし、東海道の位置は現在のそれとは違いますが、中町が社領の一部であったと考えられます。
 鶴見が日本史に登場したのは、後醍醐天皇の倒幕計画に呼応した新田義貞が挙兵して鎌倉に攻め入る途中、元弘3年(1333)5月15日、鶴見辺りで金沢貞将を破って鎌倉に討ち入ったとあります。鎌倉幕府が滅亡し、足利の室町時代を経て織田・豊臣の戦国時代になります。
 諏訪坂の地名で残っている諏訪氏は、小田原北条の家人で鶴見を領していました。足利尊氏の霊を勧請して白幡明神社を建立しました。白旗神社の根本社は、鎌倉にあって源頼朝を祀っています。諏訪氏は、信州の諏訪の豪族諏訪一族の支流で寺尾に進出し、それに従って移り住んだ武士に後に名主となる塩田氏や佐久間氏がいました。
 寺尾城の落城は天正3年(1575)、あるいは永禄12年(1565)、武田信玄が小田原を攻めた折落城しました。

中町と東海道

 戦国時代を経て徳川家康が政権を握りました。慶長6年(1601)、江戸と京大阪地方を結ぶ交通路として東海道に伝馬の制度を定めました。川崎宿、神奈川宿が宿駅を命ぜられて人馬役を負担するようになりました。農民の中には負担に耐えられなくなり、住居を捨てて街道筋に人家が集まるようになり、町並みを形つくってきました。宿場には公用旅行者の為の人足と馬が常に備えられていましたが、その人数では事足りなくなると助郷と称して村にも労役を課せられました。この助郷制度の負担は村に大変重荷となりました。鶴見は神奈川宿に属していました。
 今でこそ繁華街といえば鶴見駅近辺、この中町を中心とした地域に集中していますが、江戸の頃は市場から鶴見橋を渡った際の三家の辺りでした。
 幕末になり、東海道の事件としては生麦事件があります。江戸から京都に帰る島津久光の行列に4人の英国人が出会い、行列に巻き込まれた彼等は、警護に当たっていた薩摩武士に切られ、一行の一人リチャードソンが死亡し薩英戦争の原因になり、日本近代化・明治維新の幕開けとなりました。幕府は、これ等幾多の外国人との騒動の取り締まりを目的として、川崎宿より保土ヶ谷宿まで20ヶ所に関門所を設けました。鶴見川橋際は5番御番所、京急鶴見駅前は6番御番所でした。東海道も幕末に向かって商家もできてきましたが、現在のような家並みではなく、農業の合間に旅人相手の手間稼ぎという程度でした。
 中町の街道筋には「さぼてん茶屋」「鶴居堂」などが有名です。
 鶴見橋を渡ってからの有名店「信楽茶屋」と「さぼてん茶屋」「鶴居堂」について記しておきます。
 信楽茶屋は鶴見神社の参道入り口にあって、「江戸名所図絵」に「信楽茶屋と言える水茶屋は享保年間(1716〜1735)に開きしより梅干をひさぎ梅漬けの生姜(紅生姜)を商う。往来の人ここにいこわざるものなく、今時の繁盛ななめならず」と書かれています。大山石尊祭礼の時が最も忙しかったようです。「さぼてん茶屋」は現在のエスプランさんです。つい最近まで「さぼてん屋」の屋号で商売をしていられました。当時としては珍しく、1丈3尺(3.9メートル)のサボテンが5本もあり、街道を行き交う人達の目を引きました。お茶を飲みに立ち寄りながら、この植物の名を聞かれサボテンだと教えながら「さぼてん茶屋」の名が付けられたといわれています。弘化2年(1845)、江戸を出た立斎の「江ノ島紀行」に詳しく書かれています。
 鶴居堂は、寛永18年に咳の家伝薬として苦楽丸を発売し、往還での名物となり軒に苦楽丸と金看板を掲げ、堂々たる店を構えていましたが明治の末頃から姿を消してしまったようです。戦前まで、今のマルハチさんの位置にあった黒川薬局にその面影がありました。
 現在、菓子司清月さんで売られている「よねまんじゅう」は、字の通り米を原料にして作ったもので普通は小麦粉をもって製造するものですが、米が原料ですので街道を往き来する旅人に腹持ちが良いと喜ばれました。当時、これを売っていた店は市場側と鶴見側で何軒もありましたが、次々に姿を消してしまい、清月の田村さんによって再び陽の目をみるようになり鶴見の銘菓として現在に至っています。

中町の明治・大正

 明治5年9月12日(太陽暦では10月14日)、新橋〜東京間で鉄道が開通し、鶴見駅も営業を始めました。品川、川崎、神奈川、横浜の各駅は、5月7日に開通した鉄道仮営業の際にできていました。8月には新橋まで延長され、鶴見駅は日本で6番目に古い駅ということになります。現在の横浜駅の開業は大正4年。東京駅の開業はその前年、大正3年です。当時の鶴見駅は、マルハチさんとエスプランさんの間の路を直進した位置にあり、駅の用地は120坪と言う小駅でした。
 小説家・田山花袋は、「東京とその近郊」の一節に大正ごく初期の鶴見駅の印象を次のように語っています。「開業当日の利用客は僅か25人、その後10日間の利用客は平均20人弱であったと(中略)それが今や(注・大正4年)なんという活況をもって充たされていることであろう、停車場はひろげられ(略)将来はどれだけ発展するか分からない位の賑やかな停車場となった」とあります。
 大正9年の乗降客は1日平均6,500人。昭和10年には3万人、平成4年では8万人弱となっています。
 明治38年、京浜電機鉄道が品川〜神奈川間で営業を開始しています。現在の京急鶴見駅と花月園前駅との間に大師線総持寺駅がありました。この線は総持寺と川崎大師の間を走っていました。寺社の参詣人を当てこんだ事のようでしたが、昭和12年11月に廃止されています。
 明治44年3月31日、汽車から出た煤煙が神社の隣にあった天王院の藁葺き屋根に燃え移り、折からの北西の風に煽られて上町〜中町〜下町と飛び火し、これにより鶴見村は200余戸が焼失。中町を焼き尽くした火は、下町の安芸様屋敷で鎮火しました。この屋敷は広島の浅野長勲候の別荘でした。

 前の図(明治末期東海道生見尾村の図)を見て下さい。これは明治40年頃の絵です。吉川栄次郎さんという方が御自分の記憶の中から書かれたものです。これを見ると街道筋は幾分家並みが見られますが、その他はほとんど田畑です。幕末から大正までの姿そのままです。古老の話によりますとこの辺りに狸などがいて、野良仕事で弁当を食べていると側に寄ってきて座っていたそうです。中町が現在のような街になる変化を遂げたのは大正2年、浅野総一郎が海岸150万坪の埋め立てに着手して潮田に工場が立ち並び、鶴見駅東口・京急鶴見駅から汐見橋を渡って通勤が始まり、その人達の為の商店ができ、飲食店や高級管理職の打ち合わせ、社交場として料理屋割烹もできてきました。

 次の図(1図)を見て下さい。これは大正8年頃と思われます。上町の佐久間さんの所から鶴見駅前通りまでです。左下が綿屋、小野牛乳店、その間に饅頭屋があり、乾物屋は寺谷出の池田屋、次が永原株屋。池田屋と永原株屋の奥に小川家の置屋があり、そば屋は松鶴さんで次に青柳さん、日本画家の小島氏が住んでいました。右端は飯野さんという人が住んでいました。中央左の商とは飯塚洋品店、演芸場との角店は松屋乾物店、テジルシとあるのはその奥です。つるみ演芸場は潮田に新築中。大正6年10月1日の大津波で波にさらわれ閉鎖、中町に開館しました。隣には野田屋料理店、初代塩田伊三郎氏の経営です。ツルミ薬局の松尾さんは大正9年の開業です。奥は萩原鳶、そして反対側の角は江電社、裏は松永松田屋がありました。

 次の図(2図)はJR鶴見駅通り〜京浜鶴見駅までです。左下の家は松永家 (腰越屋)、富田下駄屋、かつて鶴声は富田の場所にありました。踏み切り手前左側にある魚又は、鶴見最古の店持ち魚屋です。次の矢上屋との間に当八軒という南京そば屋があり、京浜鶴見駅のプラットホームの向こうに岩田とあるのは生見尾小学校の先生で、後に豊岡小学校初代校長を務めた方の家です。関口とあるのは関口葬儀屋、右端は川崎の飯塚洋品店で、踏み切り小屋のすぐ後の二階屋は綿や荒物を商っていました。松屋は乾物屋です。

 次の図(3図)は現在のベルロードです。左端、藤本というのはそば屋、その隣が黒川さん、戦後まで薬局をしていました。その隣がさぼてん屋さん、そして佐藤という建具屋があり、消防小屋の前に魚又があったということです。矢上屋さんは消防小屋の側にいて、大正7年にさぼてん屋さんの隣に来たとのことです。派出所と溜池、大正5年当時は神奈川警察署鶴見駐在所でしたが、やがて警部補派出所になりました。下左角は柔道場、次は山本足袋店(現在のトミヤ)、その隣が東鶴堂田中屋、当時は瓦せんべいを売っていました。次に萬屋との間に青柳餅菓子があり、畑、本家、続いて八百惣(八百金は誤り)、2階にランチュウ享という料理屋があり、萬屋の奥には新小川屋という2階建ての料理屋、八百惣の隣は塩田という待合、奥は池田質店、更に金魚養殖所のランチュウ、更に進めば料亭鶴声、路地の反対側は腰越屋松永家でした。

 大正12年9月1日、関東大震災が発生し京浜地帯は大きな被害を受けました。朝鮮の労働者による暴動が起きるという流言飛語が乱れ飛び、在郷軍人を中心に自警団が結成され、殺気立った人達との間に事件が起きそうになりました。時の大川常吉鶴見警察署長が身を持って騒乱を阻止し、霞丸と云う汽船を鶴見川に回航させ、数百人を神戸に向けて出航させて無事を得ました。第二次世界大戦後、独立した朝鮮政府から感謝の意を込めて記念碑が贈られ、潮田の東漸寺に建てられています。避難民が絶えず街道を往来しました。町内ではこれ等難民と町民の食料を確保する為、日清製粉に粉の供給を仰ぎ、街道を行き交う避難民の炊き出しをし配給に努めました。
 大正14年12月21日、午後3時頃から8時30分頃まで、東京火力発電所の工事下請負いを巡って約2千人近い鳶職、土工、鉄工、そして渡世人が一体となって猟銃、拳銃、スコップ、ツルハシを振りかざして乱闘を繰り広げました。川崎に本拠を置く三谷秀組と東京に本拠を置き、潮田に事務所を置く青山組とのいさかいを現在、中町に本社を置く松尾工務店、初代社長の松尾嘉右門氏が青山組に加勢して起きた騒擾事件です。当時、中町の三業地は三谷秀組の勢力下で中町初代衛生組合長金子与三郎氏は三谷秀組の幹部でした。料亭小川家等が会合の場として使われました。その後、公権力の介入によって事件は終結しました。

(4図)大正14年の地図では殆んど現在の道路に整備されて来ています。

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