中町の昔と今③

戦後の中町

 終戦と同時に鶴見には、5千人のアメリカ兵が1万2千坪の接収地に駐屯し町は兵隊で溢れました。終戦まで、総持寺参道入り口に捕虜収容所がありました。収容されている兵士は、鶴見駅東口総持寺線路際の操車場で運送作業をしていました。ここにP51戦闘機が救援物資を超低空から投下し、外れたものが手に入り、その携帯兵糧の日本軍との違いに只々、驚き入るばかりでした。マッカーサー元帥が厚木飛行場に上陸し第八指令軍がニューグランドホテルに設置され、最初に収容所の解放に来ました。兵士は焼け跡ばかりのゲイシャガールの街、中町三業地にカービン銃を肩に掛け占領統治者として闊歩し、僅かに焼け残った街頭を標的に銃を発射します。日本軍の38式歩兵銃の轟音とは異なりバッキンという感じでした。これには身の毛もよだつ思いがし敗戦の惨めさを嫌というほど思い知らされました。
 人々を一番苦しめたのは食料です。都会で供給できる量には限りがあります。そこで、衣料品等との物々交換が行われ、鶴見駅前をはじめ各駅前に闇市が発生しました。特に目立ったのが濁り酒、カストリ焼酎の類で、鶴声館の裏手にあった鶴見川水上のバラック小屋に住む朝鮮系の人達が、治外法権の如くこの禁制品を作り闇市に流し、間口1間半、奥行き2間程の飲み屋が賑わいました。しかし、この闇市は駅前再開発の計画が進み、昭和27年8月中旬〜9月末までに立ち退き命令が出て、11月25日に不法占拠として強制撤去が行われましたが、比較的物資の流通が活発になった30年頃まで続きました。
 昭和26年頃には、闇市を中心とした組織暴力団が芽生えてき、町に不安が漂い、祭礼のときなど彼等によって町の神輿が占拠され、我が物顔に振る舞われ、町の治安に重大な影響を及ぼすようになりました。これを抑制する為に自然解散していた青年団が、再び小林茂氏を会長に青年会として組織され町の治安に当たりました。これを契機に各町内会にも青年会ができ、連合会を作り運動会や駅伝大会等のレクリエーションを催し、郷土意識を高めました。
 昭和31年1月8日、京浜急行鶴見駅前で市営バスと電車が衝突し、死者4人、重軽症者4人がでる事故が起きました。
 8月頃より街の美観と防災を目的として、横浜国際港都建設事業としての鶴見駅前地区・南工区・北工区・土地区画整理事業の発表があり、町内会は公示等の周知徹底に務めました。
 再開発は都市計画と区画整理によって進められました。都市計画は一定の線引きが施され、その域内の不動産は換地、又は保証によって移動し道路幅を確保しました。区画整理は定められた域内の不動産所有者は、その面積・容積に応じて1割ないし1割7〜8分を提供して道路面積を確保し、災害に即応し得る道路を作りました。

 (14・15図)は昭和38年、広告業者が広告掲載希望をとり、各家庭に配布したものです。区画整理は昭和31年の公示。この図は殆ど区画整理が実施される直前の区分図です。

 (16・17図)は、やや完成した昭和49年の区分図がこの2枚です。区画整理事業が完成するまでには、この後10年の歳月を要しました。様相が近代的になり防災上大変機能的な街になりました。

中町稲荷について

 江戸の昔は、路地に入ると彼方此方にお稲荷さんの赤鳥居がありました。中町の町会事務所が区画整理によって建て替えられる前までは、この敷地内にもお稲荷さんの狐が鎮座していました。鶴見神社の記録によりますと、氏子内には寺谷の熊野神社を筆頭に21の本社があり、明治の末から大正の始めにかけて政令により1村1社の整理統合が行われ、鶴見でも数社を残して廃社合併され、其の折、稲森稲荷が祀ってあった中町稲荷も神社に合祀されました。この稲荷は京都伏見稲荷の分霊で御祭神は「保食命」「宇迦御魂命」です。

青年会

 昭和26年、街の治安と青年の郷土意識を高めるため、小林茂氏を中心に結成された青年会は松尾鉄三郎氏、萩原昭司氏に受け継がれました。当初、婦人会の前身や子供会の前身と協力して盛んに活動していました。婦人会、子供会が会として独立した後、木村邦夫会長のもと独自の活動をするようになりました。

婦人会

 戦時中の婦人会は、国防婦人会と愛国婦人会という組織で防空演習や出征兵士の留守宅の援助等に活躍していました。終戦と同時に解散しました。昭和26年、中町会はこれを婦人部として復活し、親睦を中心に種々の文芸活動をしました。初代会長は塩田美代さん。金子キミ子さん、山田和男夫人、中村竜太郎夫人、高橋久子さん、工藤房子さんが部長でした。昭和45年、照沼吉行氏が中町会会長に就任と同時に、婦人会として独立の組織に改編し益々充実した活動をし、この間、会員数も飛躍的に増加し町の行事に欠かせない存在になりました。日常の生活環境が急激に変化し昔の様な近所付き合いが希薄になった昨今、婦人会の占める意義は大変なものです。

子供会

 子供会は、当初小学校PTAを中心に子供育成会として青年会と連絡を取りながらレクリエーションなどの活動をしていましたが、昭和45年、照沼会長の時、工藤房子さんを会長として子供会を組織し町内会より助成を受けて活動を始めました。その後、工藤さんが婦人会長を専任する為辞任。萩原喜代子さんを経て、長谷川猛氏が就任されました。子供達が思い切り遊びまわる広場が無くなり、不健全な施設が目に付く時、自然の中に歩を進める楽しみを味わわせることを目的として、色々の活動が期待されます。

高砂クラブ

 戦中戦後に活躍していた人達が戦後20年を経て、後進に道を譲り、初代婦人部長塩田美代さんを中心に金子キミ子さん、八木ハマさん、池淵ツネヨさん、細谷サトさん等でグループを作り旅行などで親睦を深めていました。区画整理の進行で縄延びができた空地を当時、流行し始めたゲートボール場として区より借り受け、井上英男さんが高砂クラブを結成、これの会長として指導に当たっていました。高砂クラブは町会の組織の一員となり、以来助成を受け、序々に体裁を作り活動の範囲を広げていきました。昭和57年、井上英男さんが逝去され、小林茂さんが会長となり、公共施設の訪問、老人保養施設等の利用を通じて会員の拡充に努めました。

 昭和35年5月25日、鶴見振興株式会社(駅ビル鶴見)の創立総会が発足し、昭和40年10月1日にビルは完工し駅前が完全整備されました。大正の始めに田山花袋が予言したことが現実になりました。
 昭和39年、現中町公園そばに住んでいた菊池康郎六段が、京浜囲碁大会で十傑の内一位となり、後に日本を代表するプロ棋士育成に多大な貢献をしました。

中町会館

 昭和9年、塩田泰三会長の時代に建築した木造2階建て106.92平方メートル (33坪)の町会事務所も老朽化が目立ち、区画整理を機に田中正次会長の下、建替えが計画されました。昭和43年4月20日、着工の運びになり土地面積131.59平方メートル(41坪)、鉄骨3階イトン造り356.39平方メートル(110坪)の中町会館が、同年10月31日完成、現在に至っています。1階2階はテナントが入居し町の財政に多大の貢献をしています。
 区画整理事業の結果、鶴見中央4丁目29番地に面積430平方メートルの中町公園が昭和41年4月1日に完成しました。鶴見中央4丁目37番地にあった昭和18年の戦時中にできた空き地1,685平方メートルを昭和53年10月、芦穂崎公園として竣工しました。

鶴見銀座商店街

 駅前を中心にした鶴見銀座商店街協同組合は、昭和28年5月30日、組合員数230名で発足し初代理事長は下二の太田深一氏でした。区域は上町・中町・下三・下二・生麦町です。
 昭和28年、お中元売り出しを手始めにネオン塔の建設に着手しました。昭和29年には開国100年祝賀大売り出し国際街頭装飾コンクールで市長賞を獲得し、更に鶴見商店街親善駅伝大会に参加して優勝しました。昭和30年、汐見橋架替完成祝賀記念の納涼花火大会があり、これに参加して興を添えました。昭和32年、区画整理事業が本格化しだし商店街としてもこの対策に真剣に取り組むようになりました。昭和34年、駅ビルの建設が具体化し近代化の必要性に迫られてきました。昭和39年、オリンピックムードを積極的に取り入れ芸能人等の協力を得て、サイン会やNHK歳末助け合い運動に協力しました。昭和40年、駅ビルが完成し駅前が一変しました。
 昭和45年、アーケードの一部が完成し区画整理の進展とあいまって新築ビルが目立ち始め、商店の衣替えと共に住民も増えてきました。昭和46年、坂口屋社長牛頭松蔵氏が第3代理事長に就任しました。昭和47年、歩行者天国によるワゴンセールを初めて行いました。昭和56年、京浜急行の高架化と商店街のシンボルタワーが、京急鶴見駅前に竣工しました。昭和57年、現理事長宮田家具店社長の岡野誠一氏が第5代理事長に就任し、組合と商店街の発展に尽力されています。昭和57年、シンボルタワーが完成しました。
 昭和58年、鶴見駅西口市街地改造によって駅ビルが改装され、近隣のビルにテナントが集まり商店街の商環境が変わってきました。昭和59年、鶴見駅西口に西友が開業。更に地域商店街が圧迫されてきました(鶴見銀座商店街協同組合35年の歩みより)。大型店の出店で消費者の消費動向が大幅に変わってきました。この傾向は鶴見銀座商店街だけではなく、全国的な問題で、国民所得が向上し交通手段が簡便になるに従って近隣の地へ移動し必需品を充足するようになると、その足を留め、且つ集客力を維持する事は猛烈なエネルギーと工夫が必要になってきました。バブルの波に乗って一時的景気に酔うことなく持続的対策が求められてきました。

三業地

 大正の始め、京浜工業地帯が日本近代化の為、急速に発展しました。これに伴なって三業地ができ中町の中核を成す地域を形成し、働く人達に憩いの場と社交打ち合わせの場を提供しました。三業とは「料理割烹」「待合」「芸妓」の三業の事をいいます。これらの区域が遊郭です。戦前は小川家、金よし、さつき、くにたけ、そして国道を挟んで鶴声館がありました。この割烹料亭を中心にして芸妓屋、待合が存在します。この三業を三業組合が統括して所属の見番がお客の注文に応じて料亭に芸妓を斡旋していました。大正〜昭和初期の建設景気に次いで戦中は軍需景気に湧き立ち好況を謳歌し、不夜城の如き有様でしたが、昭和20年の戦災によって全壊してしまい、戦後を待つことになります。更に戦後は復興景気です。いち早く戦前の料亭くにたけの後に、日本水産が社員寮と称して日水荘をつくります。前記料亭は大きな敷地を持っていました。そこを小分けして小料理屋、バー等の飲食店ができてきます。旧来の料亭割烹の形を引き継いで、お園、松葉家、豊荘、山湖、竹よし、日比田、はやし、秀よし、田毎、新三枡、国道を隔てて鶴声館が復活しました。戦前に比して数も増え、芸妓屋の数も増えてきます。昭和49年の地図(16・17図)を参照して下さい。三業地が如何に変貌したかわかります。ここに駅前再開発で換地として供給された飲食店もでき、遊郭から歓楽街になってきました。無計画に店舗が入り乱れ、狭い路地がそこここに出現し、防災上支障をきたしてきました。街の美化と防災を目的にして、昭和40年頃より区画整理が進行し近代的ビルができてきました。これ以前の中町には、未だ戦前の面影と情緒が色濃く残っていました。交通機関と通信機関の発達に従い本社機能が全て東京に移り、社交打ち合わせの場としての役目が終わり、以後、割烹料理屋はこの地から消え去り三業地としての名称だけが残りました。

三業地会

 昭和56年〜57年頃より、東京の中心街である渋谷、新宿等の風俗が全国的に広がり三業地内にも風俗店が多数でき始め、著しく街の風紀が乱れました。客引きが三業地内に止まらず商店街まで出て所構わず接触し、勧誘行為をして通行人に不快不安を与えるようになりました。そこで、照沼吉行中町会長を中心に5ケ町が協力して「鶴見駅周辺に明るい街を取り戻す会」を結成し、その趣旨にのっとり昭和52年2月、井上英男氏を会長に三業地会ができました。まず治安維持に取り組み、鶴見警察指導協力のもと街頭宣伝、会員相互の情報伝達に当たりました。しかし、当局の取り締まり強化にも関わらず、一向に成果があがりません。各地より色々苦情がありましたが、法に不備もあり序々に犯罪が増えていく傾向にありました。これらを未然に防ぐというより結果の取り締まりを強化する形になってしまいました。街の美化については、市の定められた隔日収集では職業柄、汚物に腐敗が始まり、烏や野良猫が食い散らし不衛生な状態が続きました。これは隔日収集を重ねるという事で解決しましたが、そこへ近隣の住民の方々が汚物を持ち込み、更に悪化の方向に向かってしまいました。市が業務用を切り離して収集を取り止め、三業地会が業者に委託して有料化する事でようやく解決し街の美化が取り戻せました。昭和64年現在、業者総数は120店舗余になります。

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