中町の昔と今②

鶴見村の名工

 永年、有名作家の作と伝えられ家宝として収納してあった美術品が、ある時、何かの機会に偽作と分かり苦い思いをさせられる事があります。また、毎日のように何気なく眺めていた品物が、大変価値の高い物と知らされ愕然とする事もあります。こんな笑悲劇をテレビはバラエティー番組にして視聴率を上げています。江戸の昔、北斎や広重、歌麿の版画が包装紙として海外に出て行き欧州の巨匠の目に止まり、ロートレックの「写真師」、ゴッホの「ダンキー親爺の肖像」、マネの「エミールゾラの肖像」の背景に描かれ、北斎のモチーフが名画を生んでいます。近郊散策の折りに是非、路傍の庚申塚、頌徳碑等に注意を払って下さい。そして、神社仏閣に立ち寄って下さい。鳥居、狛犬、水盤、石灯籠の基盤台座に鶴見村石工 「飯嶋吉六」と銘が刻まれていたら、それこそ鶴見村が世に誇る名工の作です。飯嶋吉六は江戸時代、初代五郎右衛門より大正まで11代、160年に渡り名工一族の名を欲しいままにした人達です(飯嶋吉六は代々襲名)。橘樹郡鶴見村三家に居を構え、石造物の製作に励みました。鳥居の最も古いものは、鶴見神社の鳥居で宝暦13年(1363)作で、現在32基が確認されています。最近、古くなり安全上の観点から取り壊しが始まり、名跡だけを残すのも多くなってきました。狛犬は鶴見神社の獅子山にある狛犬を始めとして19対(鶴見には5対現存)が残っています。鶴見神社の狛犬は、台座の文字が不鮮明で吉六作の確証はありませんが嘉永6年(1853)6月作。神奈川にある熊野神社の狛犬の作風から吉六の製作としています。寺尾城の守護神である白幡神社の狛犬は明治19年とあります。その他、幾多の石造物は市内だけに止まらず東京、川崎市内にも多く見受けられ郷土史愛好家の学術研究の対象になっています。飯嶋吉六の墓は豊岡の天王院にあります。
 神社に合祀してある中町稲荷の鳥居は、文政11年(1828)2月初午の奉納で6代目吉六(清次郎)の作です。
 更にもう1人、鶴見村が世界に送った隠れた名工がいます。その名を「畑和助」といいます。今では造園家という芸術家に数えられますが当時は植木職人です。明治22年、日本が参加したパリ万博で日本庭園を造り絶賛を博しました。日本庭園は奈良平安の頃より発達し、室町時代に完成の域に達しました。
 鹿苑寺(金閣)仁和寺震殿庭園に代表される自然の景色をいれた借景庭園、建物を自然の中に埋没させた祇王寺、書院窓を絵の額縁に見立て自然を表現したり、石庭の幾何学模様、枯山水の仏教哲学的表現等は、ただ美しさを追求する欧米型ガーデンとは違ったものを欧米の人達は感じたに違いありません。畑和助はフランスの文人貴族モンテスキュー伯爵に乞われ、お抱え庭師として彼地に留まり、フランス人女性と結婚し永住しました。また、彼はブルーストの「失われたときを求めて」に登場する日本人庭師のモデルといわれています。色々とヨーロッパの文献で紹介されている彼も日本では、全く無名の植木職人で本当に隠れてしまった名工のひとりです。分かっているのは植木職「畑仲治郎」の次男で鶴見村1010番(この地番は現在消滅して見当たりません)の出自で、潮見橋ができるまで潮田への渡船をしていたといわれています。畑仲次郎家の墓も豊岡の天王院に有ります。

戦前の中町

 (5・6図)は、大正末期から昭和のごく初期の駅前と三業地の家並図です。この頃になると駅の乗降客も大分増えてきて、通り道には日用品を商う店の間に飲食店や社交場が目立っています。しかし、まだ駅前とはいえ空き地も大分あります。面白いのはタクシーと人力車が混在しています。大正初期の図に示してあったテジルシ屋とは俥屋のことでした。三業地も体裁を整えてきています。見番(芸者を料亭に斡旋する所)がありますから当時、既に芸者衆がいたことになります。鶴見町誌の最後の頁の広告欄に当時、珍しかった電話番号が載っています。
 鶴見町芦穂崎「御割烹小川家」電話178、「御料理つる家」電話14、「御料理鶴声館」電話77、鶴見仲町「御待合栄良久」電話117、川崎には料理屋が1軒しかありませんでしたが、鶴見には12~3軒あったとのことです。

 大正7年に京浜第一国道が日本橋~高島町間で起工され、大正15年に完成しました。道幅18メートル、関東大震災の時には鶴見橋はまだできていません。橋が完成したのは大正14年です。この道路の完成によって道際に人家ができてきました。昭和に入り、川寄りの埋め立てが盛んになります。埋め立ては鶴見川の川底を掘削してその土を使いました。今は立派な鉄管に土砂を通して送り込む方法ですが、当時はこれが木管で圧力を加えると継ぎ目が外れ、周囲が泥だらけになってしまいました。(7図)は当時の情景です。


 昭和3年に町内の氏子から寄付を仰ぎ神輿を作りました。神輿金2,800円、太鼓一式金650円でした(台座に大正15年とあるのは、この年大正天皇が崩御されたので昭和3年、昭和天皇即位を記して製作年と記録しました)。昭和9年に町会事務所が竣工しました。

 (8図)は昭和10年〜12年頃の図です。急激に第一国道沿いに家が増えて行った様子が伺えます。下端、徳田とあるのは徳田眼科(現在、佃野の徳田病院)、小松は軽飲食の小松ストアー、輪湖ナカヤさん、中島はふとん店、安達さんは町工場経営者、細谷は洋服店。生方さんはガソリンスタンド、上田さんは弁護士、その隣が芸者屋、金よしは料亭(初代衛生組合長)、芸妓置屋の加藤さんは、これまた鶴見有数の芸妓置屋でした。小川家は料亭、鶴見駅前通りを挟んで帝国銀行、早野さんはタクシー、山田さんは自動車販売、細谷は洋服屋(昭和11年に道路の向かいに移りました)。山田さんは床屋、次が青木外科医院、新潟県人会館、空き地を隔てて八百屋、駄菓子屋、中野さんの住まいの隣が磯野歯科医院です。並木さんはたばこ屋、派出婦紹介所の脇に路地があり2軒長屋、小池さんは菓子問屋、酒屋があって、吉原さんは洋服屋、そして木型屋がありました。(9図)に家並み図をはめ込んで下さい。

 昭和12年に日中戦争が勃発。この年に警察署が下三町内の現在、日産陸送の所から現在地に移転してきました。鶴見川までに東芝病院があり旭工業所、金光教鶴見教会、製材所等がありました。料亭鶴声館は国道から小道で松並木、玄関を入ると立派な車寄せがあり、敷地内には池もありました。
 釣の入門は鶴見川です。のべ竿にテングス、ウキ、ハリを付け、引き潮時に岸辺の泥沼から餌のゴカイを採り、はぜを釣ります。夏休みの終わり頃よりお彼岸の頃が最盛期でした。たまに17〜8センチのセイゴが掛かります。この魚信の強さに大喜びし、釣り上げようものなら嬉しさの余り友達に自慢して歩いたものです。
 家並みの白地の部分は空き地です。幹線道路に面している所は、よく産業資材の置き場になっていました。電柱や高圧電線用の直径2メートル程の線巻き等が置いてありました。ジャングルジムや回転ブランコなど無い頃、これが結構な遊び道具でした。空き地には毎日、紙芝居のオジサンが拍子木を叩きながらやってきました。水飴やら薄い煎餅に砂糖をまぶしたのが観料でした。明日の続きを期待しながら懸命に観ていました。現在の貨幣単位で「銭」は、株価や為替相場くらいにしか使われていませんが、この頃、子供のお小遣いは1銭、5銭と言う程でした。小池菓子店でチョコレートの原料塊やらビスケットの欠けた商品にならない物など買ってきて、空き地でチャンバラの合間に食べたり、駄菓子屋の一本ムキに興じたりしました。この一本ムキは1銭で台紙に貼ってある籤(注:くじ)を引き、1等7銭、2等5銭、3等3銭、外れは5厘の品物をくれたものです。一体どのくらいの当選確率だったかあまり覚えがありませんが、まだ5厘が有効でした。チャンバラはその頃流行の鞍馬天狗、自分があたかも嵐寛寿郎になったつもりで街灯に灯が灯るまで遊び惚けていました。空を見ると蝙蝠(注:こうもり)が何処ともなく飛来して、小石を投げると餌を追うように地上すれすれまで追いかけ、捕らえられると思う程でした。夕日が総持寺の丘に映え、シルエットが奇麗でした。
 昭和12年に市の指示により、今までの親睦団体睦会「中友会」を解散して「鶴見中町会」を編成しました。
 昭和13〜14年になってくると中国大陸の戦線は拡大され、街には出征兵士の姿が目立ってきます。召集令状を受けた人達は出発の前日、近所の方々をお呼びして送別の宴をはり、翌日、町内の人達は出征兵士を先頭にして手に手に小旗を振りながら神社に行き、必勝と武運長久を祈願しました。戦争が激しさを加えて行くに従い、武運つたなく戦死され白木の箱に入り帰還する人も出てきました。町内では英霊を駅から出迎えました。
 昭和15年に皇紀2600年奉祝記念式典が国威発揚の為、挙行され永年渡御を中止していた鶴見神社の大神輿が街中に担ぎ出され、街は慶祝ムードに浸りました⑲この年、中町は中町第一町内会(駅前より北側)、中町第二町内会(駅前より南側)に分割され10戸単位で隣組ができました。婦人会は国防婦人会、愛国婦人会で活躍しました。青年団は楽器を購入し出征兵士の歓送や体育向上の為、種々の活動をしました。又、警防団は隣組に防空訓練を実施しました。
 黒岩誠章店の一帯は空き地で青年団は茲(注:ここ)に土俵を作り、相撲の稽古をしました。中町に大相撲で十両を張っていた布引と言う力士がいて、時々、巡業の合間に来て指導していました。その噂を聞いて日本鋼管の相撲部の人達が稽古に来ました。ぶつかり稽古をしましたが全然歯が立ちません。職業力士の凄さをまざまざ見せ付けられる思いがしました。在郷軍人の人達がよく銃剣術の訓練などをし、タイガーの片桐さんは一番の強者でした。鶴見駅より向井町弁天街を結ぶ汐鶴橋ができたのはこの年でした。
 昭和16年12月8日に大東亜戦争が始まりました。ハワイ真珠湾攻撃から南方へと戦場が広がり、その行く末を心配しました。その心配が直ぐ翌年、昭和17年4月18日に現実のものになりました。銚子沖海上の空母ホーネットから発進したノースアメリカンB25が初空襲に飛来し工場地帯を爆撃しました。この日は土曜日で快晴でした。
 昭和18年は、戦前の中町が最後の姿を留める年でした。家屋の強制疎開が始まります。主要道路に面する家や密集している所の撤去が行われました。家屋の取り壊しは現在のような順序立って解体するというのではなく、縄を柱の上方に引っ掛けて、それで引き倒すという方法でした。何年も苦労して建てた家が雑然と一瞬のうちに失われてしまい、その跡地に立ってしばし呆然としている人達が大勢いました。

 (10図)は昭和18年の駅前家並図です。右端は日通の貨物集積所で、次が森永キャンデーストアー、続いて事務所があり、旅館佃煮屋、ここの煮豆が美味でした。奥は鴨志田さん(米屋)。中の湯の隣は海老沢書店(以前は新聞屋)、関口さんは葬儀屋、子息は東急セネタースの選手でした。駅右側は井上さん、カバン屋とタバコ屋を営んでいました。御主人はカバン職人で、仕事をしながら店番をしていました。隣は松野さんのタクシーと旅館です。車屋は明治の頃よりある人力車屋で、雨宮さんは麻雀屋。外向きの窓があり、店内の様子がよく見えました。駄菓子屋があり、山本さんは文具屋、横山さんは日本そばの武蔵屋で、ここの親戚に横綱武蔵山がいました。芦穂崎小学校に来て児童を慰問してくれたことがあります。唐鎌さんは刀研ぎ師、店内に注連縄を四方に張り刀を研いでいました。うなぎ屋の八目うなぎは夜盲症に良く効くといわれていました。松屋は乾物屋、隣が田村さんの清月、広い間口の立派な店構えで、如何にも和菓子屋さんという風情でした。カフェーフローラの路地隣は生麦出身の牛頭さん(呉服屋)、その奥は鳶の萩原さん、体格のよい頭でした。竹内さんは書き紋屋、煙草を口から離さない人でした。隣の磯部さんは都市対抗コロンビアから名古屋金鯱軍に転じ、アンダースローの投手として活躍しました。松尾さんはつるみ薬局、中町会会長を務めました。江電社は電気工事店、池田さんはタバコ屋、塩田さんは果物屋。牛乳屋、加藤さんの松鶴は日本そば屋。八百金さんと一緒。レコード屋があって、石井さんのだるま屋は靴屋でした。

 (11図)は鶴見銀座と三業地の家並図です。京浜急行鶴見駅隣が佐相さん、下駄屋でした。玩具屋は隣の金子酒屋さんの経営。金子さんは緑区の出身の酒屋、魚又さんは生麦出身の鶴見で初めての店持ち魚屋、それまではボテフリが中心でした。町会事務所は昭和9年の竣工です。鈴木さんの矢上屋は天保年間からの小間物屋、そして塩田さんはサボテン屋、当時は種子等を売っていました。江戸の昔からの有名店、当時は茶屋です。黒川薬局は江戸時代、文化10年からの老舗、安田貯蓄は無尽会社で現在の「りそな銀行」の前身、中村理髪店の隣が岡野さん、宮田家具店(現町会長)、そして朝日新聞の販売所、小野宮さんは写真スタジオ、大きな洋犬を飼っていてよく散歩に連れていました。片桐さんはタイガー食堂、小柄でがっちりした御主人は在郷軍人会で活躍していました。鈴木さんはトンカツ屋、なかなかの美味で、後に関内で営業をしています。浅井さんは洋服屋、大きな風呂敷を背負って商いに勤しんでいました。伊藤さんは洋品屋、藤原さんは現在も盛大に商売をしています。畑さんは市民酒場の老舗、朝から勤労者の人達で賑わっていました。折井さんの家の前にはガッチャンが置いてありました。今ではパチンコは大人の遊びです。ガッチャンはこの原点です。田中さんは東鶴堂以来の老舗で金物店。長年、中町々会長として活躍しました。西村さんは果実屋、後に相模原に移られ農業に従事しました。山本さんは自転車屋です。松永さんは腰越屋、土着の方で大地主です。隣の岩崎さんは立派な屋敷でした。見番は林さんが管理していました。朝から稽古三味線の音がし、芸者衆の姿が絶えません。隣は置屋の小林さん、料亭松葉家から坂を下って角が料亭さつき、道を隔てて料亭金よしでした。池田さんの家作は駄菓子屋、奥に座敷があって子供達が小遣いを握りしめ「もんじゃ」を焼いていました。深津さんは日の出家と言う芸妓家さん。森さんは歯科医、恐い先生で虫歯治療に行く時など恐さと痛さで縮んだものです。祖父江さんは京染物屋さん、隣に髪結いがあり、角一帯は料亭くにたけでした。路地を曲がると津島さん、生垣を廻らした屋敷で松永さんの差配をしていました。置屋2軒を経て第一京浜国道と交わる所に金鶴湯があり、国道際は料亭小川家と徳田眼科でした。

 家屋の強制疎開も昭和19年の中頃には大方完了しました。(12図)斜線部分は撤去された所です。これで第一国道と富士見鶴見駅前線、京浜鶴見駅より鶴見神社に向かっての道の様相が大幅に変わりました。婦女子や学童の疎開が始まりました。8月8日に、芦穂崎国民学校に通学する3年生から6年生までの生徒が、足柄上郡南足柄町の弘西寺(第一町内会)、弘行寺(第二町内会)に親元を離れて疎開しました。
 12月25日午前3時過ぎ、横浜市がB25に初めて空襲を受け、鶴見では大黒町、小野町、下野谷町の工場が爆撃され生麦の真田病院が一部被害を受けました。
 昭和20年になると、いよいよ戦況思わしくなく本土への空襲も頻繁になりました。3月10日に東京大空襲。4月15日に京浜大空襲、この日は日曜日で晴れでした。午後9時20分に警戒警報、10時3分に空襲警報が発令されると同時に303機のB29によって東京南部、川崎に焼夷弾が投下されました。午後11時頃、鶴見は潮田より被害が出始め次第に市場より鶴見川を越えて上町から中町へと進んで、第一発を料亭小川家が受けて燃え上がりました。最初に被災した潮田方面の人達は総持寺、生麦方面へと難を逃れて移動してきました。12時を過ぎる頃、国道駅近くが被弾し、多くの死傷者が出て国道筋に死体が見られ凄惨を極めました。中町の人達の多くは、総持寺へと非難して空襲警報解除を待ちました。ザーッという夕立の雨音のような音がして闇夜が一瞬昼間のように明るくなり、油脂焼夷弾の油が飛び散り、次々と火の手が上がり焦熱地獄となります。こんな中、避難場所の総持寺の真上でB29が我方の高射砲によって撃墜され火の玉になって墜落し、焼夷弾の怖さに加えてこれが身近に落ちるのではと震え上がりました。空襲警報解除は16日午前4時頃でした。中町はこの空襲によってほとんど壊滅しました。この空襲は戦後アメリカ軍史に、鶴見川より西側は「はみだし」であったと記されています。
 そして、5月29日の横浜大空襲に伴って再び空爆を受け、残存家屋に被害がおよび駅前付近30戸余りを残して全部焼失しました。このため両町内は町内会としての機能を失い、再び合併しました。
 (13図)は昭和23年の地図で戦後3年目、既に復興の槌音が高らかに鳴り響き始めた頃ですが、この図を観ると駅東口方面の被害の大きさが分かります。8月15日終戦となりました。

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