あとがき~参考資料

あとがき

 この「中町の昔と今」を書き終えて来し方を顧みると、ただ懐かしい事ばかりが走馬灯のように頭の中を走り廻ります。老人の常で全てネガティブに「あの頃は良かった」「あれでなければいけない」と否定的になってしまいます。平成18年3月11日に東京12chのアド街ック天国で「春の散歩/横浜鶴見」が放映されました。鶴見に生まれ育ち、大抵の事は知っているつもりでいた自分があれを観て、あまりにも今の鶴見を知らない事に気付きました。観光地としての鶴見、街にある商店、そして飲食店、今まで馴染みのなかった異国の風俗、これらの人達と交流する風物、只々驚き入るばかりでした。今、この時代に生きている若人が50年、60年を経て、この時をどのように想い感じるか、想像しただけで楽しくなりました。このテレビ放映があって2~3日後、あれを観て昔が懐かしくなったので何十年振りかで鶴見へ来たと、年配のご兄弟が訪ねてきました。お会いしたところ、お兄さんが私と芦穂崎国民学校の同級生とのこと。余りの昔のこととて記憶が蘇らず大変失礼しました。昭和19年に大和市に移り農業に携わったとのことでした。当時、サボテン屋さんの前で果実店を営んでいたようでした。塩田さんから私の家へ来られ昔話に花を咲かせました。人は何か機会が与えられると記憶の中の自分を楽しむものと思いました。弟さんは移転当時2歳で鶴見に関しては何も分からないが、今住んでいる所が自分の故郷、ここを大事にしていきたいともらしていました。住居は木造の家から鉄筋に、商店は個人商店から大企業のスーパー、コンビニへと替わってきました。食材を求めて買い物に出た奥さんが、店のおかみさんと世間話をしながら用を済ませる姿も少なくなってきました。パックになった食材と既製の惣菜。日本全国、何処に行っても同じような街並みと同じ食卓。こんな日常でも又、違った文化がこの中から生まれ、そして、こんな時代でも懐かしく思う時が必ず来ます。この街、中町が温かい人情に溢れた街に育って行く事を念じつつ筆を置きます。

平成18年9月 敬老の日
細谷 薫

参考資料

参考文献

鶴見区史鶴見区史刊行委員会
鶴見村誌竹内治利 佐久間道夫
鶴見区の前身生見尾村誌持丸輔夫
絵と地図でみる大正初期の鶴見天王院幼稚園 生方通信
鶴見の歴史と人々のくらし刊行委員会
鶴見ところどころ中島昭
鶴見の史跡と伝説鶴見歴史の会
古老が語る鶴見の百話伊東実方
鶴見川 境川流域文化孝小寺篤
鶴見川歴史散歩と中世流域のつわものたち瀬田秀人
騒擾事件百科サトウマコト
横浜の歴史横浜市教育委員会
わが町の昔と今 鶴見編岩田忠利
協同組合三十五年の歩み鶴見銀座商店街

御協力頂いた方々

土田貞男様  畑春雄様  松尾鉄三郎様  並木博様
田中澄雄様  八木康夫様 松永和男様 婦人会OBの方々
子供会OBの方々

歴代会長 副会長の方々

大正8年中町睦会々長 小池国義氏
大正9年中町衛生組合長 金子与三郎氏
昭和5年睦会々長 塩田泰三氏副会長 萩原与吉氏
昭和12年初代会長 塩田泰三氏副会長 萩原与吉氏
第二代中町衛生組合長 佐脇伊三郎氏
昭和16年第一町会長 松尾拓郎氏副会長 山田義三郎氏
第二町会長 佐脇伊三郎氏副会長 小川敏郎氏
昭和20年二代会長 松尾拓郎氏副会長 金子督太郎氏
昭和21年三代会長 金子督太郎氏副会長 細谷心次氏
昭和27年五代会長 松尾拓郎氏副会長 金子伝二氏 細谷心次氏
昭和29年細谷心次氏辞任により森川秀次郎氏就任
昭和31年六代会長 金子伝二氏副会長 田中正次氏 牛頭松蔵氏
昭和36年七代会長 田中正次氏副会長 長谷川章夫氏 照沼吉行氏
昭和45年八代会長 照沼吉行氏副会長 長谷川猛氏 金子裕勇氏 岡野誠一氏

中町10周年史

昭和21年、戦禍によって機能を停止していた町会が指令により再び防犯協力会として発足しました。そして10年が過ぎ金子伝二会長のもと中町10周年史を作りました。

大正時代

大正3年、欧州大戦勃発するや工業方面は急激に発達し、浅野総一郎 安田善次郎氏等によりて海岸を埋め立て工場を誘致して今日の発展の基となった。なほその頃新国道が創設され且つ国道の両側の田甫が埋め立てられて発展に拍車をかけた。

地名の変革

 明治21年まで鶴見村 生麦村 寺尾村と称す
 明治22年より右3村合併し生見尾村と称す
 大正6年より鶴見町 潮田町と改称。
 大正14年鶴見町となる。
 昭和2年横浜と合併鶴見区となる。

古老追憶座談会 昭和31年8月8日午後1時より
 場 所  中町会館
 司 会  松尾拓郎
 出席者  金子与三郎 塩田福松 山本春吉 土田貞二 山田延治郎
      細谷心次 森川秀次郎 戸倉英太郎
 来賓として鶴見神社宮司 金子勢次氏
 現役員 田中正次 八木康吉 佐藤末悦 金子伝二

大正4年頃の村会議員は中町より松永市蔵氏 長谷川広一氏 池田久蔵氏であった。当時の町の世話人は長を目代と言い、松永周蔵氏であった。世話人は金子与三郎 塩田伊三郎 池田元吉 田中弥吉 塩田作兵衛の諸氏 その後総代制となり、総代は畑広栄氏が就任した。
大正8年、中町睦会が結成された。会長 小池国義氏 役員 金子与三郎 池田林蔵 松野光治 萩原与吉 佐脇伊三郎 山本春吉 海老沢伊三郎 加藤勤作 横山又吉 亀頭庄治 佐相冶助氏等
大正9年、市の指示により中町衛生組合が結成される。組合長金子与三郎氏
大正12年9月1日、関東大震災が起きる
大正14年12月、土建業松尾組と同業三谷秀組との間に鶴見騒擾事件が起きる

昭和時代

昭和3年、下二下三中町上町など商店街が此の頃から発展し大合同し鶴商会を設立す、中町側の発起人は山本春吉 池田林蔵 黒川四郎 佐相治助氏等であった。同年町内氏子の寄付を仰ぎ神輿を新調す、上世話人 塩田泰三 山本春吉 萩原与吉 横山又吉氏等
昭和5年、睦会会長塩田泰三 副会長萩原与吉 役員金子与三郎 山本春吉 佐脇伊三郎 横山又吉 池田林蔵氏等
その頃中町有志16名に依る親睦団体中友会があって町の発展に側面より応援した。
昭和6年、中友会は解散し神社に燈篭を奉納す。
昭和6年、満州事変勃発す、町内よりボツボツ在郷軍人の動員を受くる者あり市は防護団を組織し町内にても組織す。
昭和6年4月、塩田会長より功労者に感謝状を贈呈す。
昭和7年、塩田会長は町会事務所建設を計画され町費の一部を別途積立し昭和9年事務所竣工す、建坪2階建33坪
昭和12年、市の指示に依り鶴見中町会を編成す、会長 塩田泰三氏 副会長 萩原与吉氏 役員 山本春吉 横山又吉 小川敏郎 塩田福松 金子与三郎 海老沢伊三郎 池田林蔵 松野光治 佐脇伊三郎 加藤勤作 亀頭庄治 松尾拓郎 松永俊蔵氏等 衛生組合長 佐脇伊三郎氏
昭和13年12月、塩田会長名にて功労者に感謝状贈呈
昭和15年5月、塩田会長 佐脇組合長名にて功労者に感謝状贈呈。
昭和15年、国家総動員体制が布かれ末端組織徹底の為め指令に依り中町会を二分す なほ隣組を組織する。隣組組長会或いは隣組の会合の際は開会に先だち先ず皇居遥拝 出征将兵の武運長久を祈り尚戦没英霊の冥福を祈り然る後開会する。其の頃金属回収強化され仏具や墓の鉄鎖蚊帳の釣手まで供出される状態であった。戦争は次第に苛烈となり町内の軍籍にある者は全部動員され軍籍なき者は男女を問わず工場等に勤労す。婦人部は愛国婦人会 国防婦人会であった。塩田 佐脇 須藤の婦人等が幹部であった。防護団は警防団に改まり幹部は下の人達であった。
幹部 塩田福松 金子伝二 松尾拓郎 森川秀次郎 小川敏郎 細谷心次 永井 出口一美氏等

昭和15年12月、塩田会長名にて功労者に感謝状贈呈
昭和16年4月、塩田会長辞任
第一町内会長 松尾拓郎 副会長 山田義三郎 役員 森川秀次郎 井上功三郎 雨宮貫一 荒川信一 下山義信 出口一美 細川寛 萩原武彦 風巻啓作 玉岡武夫の諸氏
第二町内会長 佐脇伊三郎 副会長 小川敏郎 役員 細谷心次 金子伝二 海老沢金蔵 金子督太郎 黒川四郎 山崎 永井の諸氏 この頃納税組合設立の勧告を受け結成す 組合長 金子伝二 幹部 細谷心次 井上功三郎氏等であった。
昭和17年、松尾会長名にて感謝状贈呈
昭和18年、物資愈々欠乏し食糧その他配給制となり町会は町内の人員移動並に配給事務一切を処理す。
昭和19年末より戦争不利となり敵機は各地に飛来し焼夷弾落下を受ける様になり重要道路の家屋は取り壊し並びに老幼者、婦女子の疎開を勧告するなど混乱憂色次第に増す。
昭和20年4月15日、町内に大空襲を受け第一第二町内の過半焼失す。従って町の統制も次第に不能となる。5月29日、再び空襲を受け焼け残る家屋は駅付近の30戸となる。
8月遂に戦争終結の詔勅下る。
第一、第二町内会合併 戦災により両町の殆ど焼失せる事
及び第二町内の幹部殆ど町外に転出せる為め事実上事務遂行不可能になりし為、両町合議の上合併し中町会となる。会長 松尾拓郎 副会長 金子督太郎 役員 萩原武彦 中島光二郎 早野源蔵 長谷川広一 鈴木茂吉 塩田金作 細谷心次 田村重雄氏等。
昭和21年4月、改選 会長 金子督太郎 副会長 細谷心次 役員 鈴木茂吉 萩原武彦 塩田金作 駒場桂冶 山本春吉 森秀穂 中島光二郎 倉下浜吉 伊藤豊司 橋本尚三氏であった。
12月、民生委員制発足金子会長が任命。
其の頃指令に依り町会事務所の如き団体の建造物の所有を許可されず依って町会事務所を如何に処理するかに就いて住民投票せし結果町会幹部一任が多数の為め協議の上中町会館と変更し管理者として金子督太郎 細谷心次 鈴木茂吉の三氏に委任す、簡易住宅中町内へ17戸分材料配給せらる、受給者17名共同作業にて約1ケ月で完成す、6.25坪一棟2千4百円 右指導者金子督太郎 細谷心次
鈴木茂吉 塩田金作の諸氏 尚其の頃一旦解散せる町会は指令に依り防犯協力会を結成す。
昭和25年6月、改選 会長 山田延治郎 副会長 金木伝二 細谷心次 役員 池淵隆久 早野源蔵 竹内要道 竹内余四郎 土田貞二 鈴木茂吉 塩田金作 塩田みよ 相談役 金子督太郎
昭和26年4月、市会議員選挙さる、会長山田延治郎氏立候補せるに付、町会は挙げて応援せるも不幸落選す。
昭和27年5月、改選 会長 松尾拓郎 副会長 金子伝二 細谷心次 役員 森川秀次郎 池淵隆久 竹内要造 竹内余四郎 土田貞二 萩原武彦 鈴木茂吉 森井一明 宮世話人 塩田金作 国武富蔵 駒場桂冶 田村弘太 衛生指導員 浅井銀之助 井上英男 前島利隆 広報委員 森川秀次郎 土田貞二の諸氏
昭和28年12月16日、旧道の鶴見橋架替落成祝賀式挙行。其の頃鶴見銀座商店街にネオン建設年の暮点灯し非常に町が一新せり。
昭和29年5月11日、総会 会長 松尾拓郎 副会長 金子伝二 細谷心次 役員 森川秀次郎 池淵隆久 土田貞二 鈴木茂吉 塩田金作 竹内余四郎 竹内要造 萩原武彦 長谷川章夫 田中正次 国武富蔵氏等
昭和29年7月、副会長 細谷心次氏辞任に付森川秀次郎氏推薦就任
昭和30年4月、市会議員の改選に当たり地元有志相諮り候補者として松村民蔵氏を推薦挙町応援 選挙の結果当選せり。
同六月、国勢調査施行 調査員 田中正次 杉田しづ 駒場桂冶 山田隆司 町田公善 小林茂 松永俊男 金子裕勇 浅井恒夫氏等
同10月15日、汐見橋架替工事完成祝賀式挙行
昭和31年5月、総会 会長 金子伝二 副会長 田中正次 牛頭松蔵氏 役員 塩田金作 竹内要造 八木康吉 佐藤末悦 榎並敬三 井上英男 前島利隆 田村重雄 川島春松 小林茂 長島道郎 照沼義行 金子キミ子氏等 会計 池淵隆久 監事 鈴木春吉 長谷川章夫氏等 顧問 塩田泰三 金子与三郎 塩田福松 山本春吉 参与 松尾拓郎 森川秀次郎 鈴木茂吉 土田貞二
8月より中央工区(中町上町上町自治東町会の一部)の区画整理実施の声あり、町内会は換地課、区役所等と連絡をとり公示等の周知徹底に務めり。9月は数回に及んで四ケ町連絡促進委員会連合会を結成、10月の審議会委員選出に就いて選挙をさけ円満に話し合い無競争にて決定す。審議会委員 地主側 牛頭松蔵氏 借地側 山田延治郎氏
中町婦人部 昭和26年春戦後再び結成初代会長 塩田美代氏よく会の育成に努力、昭和31年春まで名会長としてこれに補佐された細谷 池淵 金子 橋本 船川夫人等の努力も見逃すことは出来ない。昭和31年春、名会長引退 金子キミ子氏推薦就任
中町青年会 昭和26年頃、戦後再び建ち上がり初代会長小林茂氏よく会員の親睦と町の事業に協力奉仕他の模範となり次ぎの会長松尾鉄三郎氏矢地氏等よく体位向上に精神の練磨に尽くされました。昭和31年、萩原昭司就任。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました